[キェルケゴールの『畏れとおののき』におけるディレンマの問題]


 キェルケゴールは、沈黙のヨハネス(Johannes de Silentio)という仮名を用いて、『畏れとおののき 弁証法的叙事詩』(1)を出版した。そこで彼は、『旧約聖書』の『創世記』にあるアブラハムが息子イサクを燔祭として捧げようとした物語を題材にして、信仰と倫理の間の葛藤を考察している。「畏れとおののき」という表題は、「畏れとおののきをもって」という『ピリピ書』第2章12節を典拠としている。この表現は、絶対的、超越的な神に対する畏れとおののき、すなわち畏怖の念をもって、神の前に立つ人間の姿を表している(2)。キェルケゴールは、世俗化したデンマーク国教会の牧師に対して批判を繰り返しているが、彼らにはこの畏れとおののきが欠けているからである。さらにまた、沈黙のヨハネスという仮名は、信仰は、公共的な言葉では語ることが出来ず、ただ沈黙によってしか示されえない極めて私的なものであるという信仰のあり方を表しているのである。『畏れとおののき』を伝記的に見れば、キェルケゴールが自分自身の婚約破棄問題になぞらえて、破談相手のレギーネに向けて書かれた書であるという指摘がなされているが、本論においては、まさに表題に示された字義通り、畏れとおののきをもって神の前に立つという信仰のあり方、そして、その信仰が沈黙によってしか示されえないということを踏まえつつ、信仰と倫理のあり方を中心に考察することにする。

 『畏れとおののき』では、「序言」に続いて、「調律」(3)という章が設けられている。そこでは、『創世記』第22章のアブラハムの物語が、心理学的に、異なる四つの物語として提示されている。調律とは、まさに音楽の演奏をはじめる前に、楽器の調子をあわせることであり、キェルケゴールは、この章においてアブラハムのイサクに対する心理的葛藤を描写することで、読者を深いディレンマの世界へと誘い、読者の気分・情緒を整えようとしているのである。「調律」に続く、「アブラハムをたたえる言葉」では、ひたすら神を信じた信仰という観点からアブラハムの偉大さが語られる。これらの序奏の後に、『畏れとおののき』の主題である「問題」の章が続き、そこではまずその「序想」において倫理と宗教との間の葛藤と矛盾が論じられる。倫理的世界に生きる「悲劇的英雄」と信仰に生きる「信仰の騎士」との相違や、背理なものの力による「無限の諦め」から「信仰」への飛躍、信仰の逆説性などが論じられ、その後に、三つの問いが立てられる。まずは、問題一として「倫理的なものの目的論的停止は存在するか?」と問われ、問題二として「神に対する絶対的義務が存在するか?」、そして最後に問題三として「アブラハムが彼の計画を、サラにも、エリエゼルにも、イサクに黙して語らなかったのは、倫理的に責任を問われるべきことであったか?」と問われる。キェルケゴールは、それぞれの問に対して、早急に回答を与えようとするのではなく、様々な寓話の考察によって、我々に信仰の何たるものかを示そうとしているのである。こうして、我々は、アブラハムが味わったであろう不安と苦悩という情調へと誘われ、それは同時に、信仰は逆説によってしか示されえないという信仰の逆説性と関係しているのである。

 キェルケゴールが、沈黙のヨハネスに「私は、信仰の運動を描くことは出来ても、それを行なうことは出来ない」[pp.37ー38]と語らせていることは、注目すべき言葉である。そこにおいて彼は、信仰を描くことと信仰とは別ものであると指摘し、信仰は思惟によるのではなく、情熱であると繰り返し指摘している。すなわち、信仰そのものにいたるには、情熱による超越が必要となるのである。

 キェルケゴールは、真の信仰を希求し、情熱をもってみずから真のキリスト者となることを願ってやまなかったと言われる一方で、まさに思惟による運動ともいえる数々の論争を孕む著作を数多く残している。我々に向けて信仰の意味を問う彼の著作の数々は、如何なるものであり、我々が彼の著作に接して信仰の意味を「考える」時、その運動は、決して信仰に至りつくことのない思惟に終わるのか、それとも信仰へと超越するのか、それは我々自身の問題である。このことは、キェルケゴールが我々に語りかけようとしているもの(すなわち、信仰)が、まさに沈黙によってしか示されないものであるにもかかわらず、彼の語りは、語りえないものに向かって、語りうることの極限の限りを語りつくそうとする試みであったといえるのである。

 キェルケゴールの著作には、実名で書かれたものと、仮名で書かれたものがある。仮名著作の場合、実名で書かれた宗教的な著作と異なって、必ずしもキェルケゴール自身の思想を表明したものではないといわれている。この『畏れとおののき』は、沈黙のヨハネスという仮名で書かれているので、その内容は必ずしもキェルケゴールの思想そのものを表明している訳ではなく、あくまでも沈黙のヨハネスという仮名の著者に託されているのである。例えば、「私は信仰を持っていない、信仰を持つ勇気が私には欠けている」という記述や、「私は信仰の運動を行なうことが出来ない。私は目を閉じて、確信をもって、背理なものに身を投ずることは出来ない」などという記述[p.34]が見られるが、これらはキェルケゴール自身のことを語っているよりも、『畏れとおののき』におけるキェルケゴールの立場を表明しているとみるのが妥当である。「私は決して信仰を持っていない。私は生まれつき鋭敏な人間なのであり、鋭敏な人間というのは信仰の運動をするのが困難なのであり」「この困難さに何か価値を認めようとは思わない」[p.32]という一節も、『畏れとおののき』における仮名著者の立場をあらわす的を得た表現である。

 以上をふまえて、本論では、カントとルターのアブラハム解釈を参照し、キェルケゴールの『畏れとおののき』に見られる信仰と倫理の間におけるディレンマの問題を扱うことにする。

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[註]

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