第一節 他人事として語ること
キェルケゴールは、生涯を通じて、真のキリスト教徒たらんとして、真の信仰を追求し、世俗化したデンマーク国教会に対する晩年の激しい攻撃でも知られるが、『畏れとおののき』においても、当時のデンマーク国教会や牧師らへの批判を展開している箇所を見つけることは容易である。その批判の視点は、信仰をあたかも自分のことではないかのように語る点に向けられ、その偽善を戒めているのである。
例えば、アブラハムの物語に関する牧師の一般的な説教の例が語られるている[p.28]。それは、牧師の説教に限らず、普通の人々も含めて、「アブラハムが最善のものを捧げようとしたほど、神を愛したことは偉大であった」というように、一般的な表現を用いて、アブラハムを信仰の父として、讃えているのである。つまり、神の命によって息子を捧げようとした彼の行為は、倫理的に見れば息子を殺す行為と見なされるにもかかわらず、まるで気楽な他人事のように語られているのである。
もしそこに、その牧師の言葉を真に受け、真の信仰者たらんとして、自分の子どもを神に捧げようとする男が出てきたらどうなるかと、キェルケゴールは疑問を投げかける。おそらく牧師は、日曜日の説教でアブラハムを讃えていたことを忘れて、「自分の息子を殺そうとするなんて、何という悪魔に取りつかれたのだ」と言って、その男を制止するだろうというのである。アブラハムは、背理な力によって、息子を取り戻したのであるが、それはあくまでも聖書の世界の出来事、説教の世界の出来事であって、実際の世界ではそれが不可能であるというかのごとくである。「世の中のことは牧師が説教したようには進まない」という諺を牧師自身が一番よく知っていて、その男に教えているかのようである。アブラハムを偉大だと讃える牧師には、アブラハムは偉大な人ということになっているから、彼のすることなら何でも偉大である[p.29]というような安易さがあるのである。信仰が、わが子を殺そうとすることを神聖な行為となすことができるのでなければ、他のすべての人間に下されるのと同じ審判がアブラハムにも下されるべきであり、アブラハムは人殺しであったと主張する勇気が、必要なのである[p.30]。アブラハムは、倫理的に表現すればイサクを殺そうとしたのであり、宗教的に表現すればイサクを捧げようとしたのである。ここで注意しなければならないのは、ただこのように分類して一般的な表現を与えることに意味があるのではなく、「この矛盾の中に、人を眠れなくする不安がある」[p.30]ことに意味があるのである。信仰がアブラハムのまねをすることを困難にしているのであり、アブラハムの物語で見落としてはいけないのはまさに不安なのである。
これに対してカントは、『宗教論』において「宗教上の上位者は、自分自身も決して完全には確信できないことを他人に信仰せよと迫るという、良心に反したことを自らなすことになろうし、そこで自分がなす事柄を公正によく考えてみるべきであろう。なぜなら、彼はこのような賦役信仰から生ずる一切の誤用に対して責任を負わなければならないからである。――それゆえ、おそらく信仰された事柄に真理がありうるとしても、それを信仰することに(あるいは信仰のたんなる内的告白においてすら)不誠実がありうるのであって、この不誠実はそれ自身罰に値するのである」(1)としている。カントはアブラハムの行為を批判しているが、キェルケゴールにしろ、カントにしろ、理由に差はあるものの、不誠実な態度は戒められるべきであるという点では一致している。
キェルケゴールは、このようにアブラハムのまねをして、子どもを燔祭として捧げようとする男がいたとしたら、それを止めるように説得はするが、説得の果てに最終的に決断された行為であるのならば、「彼はこの世では祝福されることはないが、他のすべての人々と一緒に(天国では)祝福される」と語っている[p.32]。殺人に至るまでの過程において、アブラハムが如何に敬虔に神を畏れる人であったか、アブラハムが如何にイサクを愛していたかを同行して語り、いつでも引き返せるのだと説得するというのである。つまり、最終的にアブラハムが引き受けたであろう不安や葛藤を、自分の問題として受け取りなおし、その結果として行為がなされたとしたら、この世の倫理では決して許されることではなくても、宗教的には認められうる余地が残っているのである。もし、その余地がないとするならば、前述のように、アブラハムは単なる殺人者ということになり、信仰が世俗に従属することになってしまう。そして、もしもあらゆることが普遍性のもとで明らかにされ、個別者は普遍性に従うべきものであるとしたら、神との絶対的な関係、信仰の意味が失われてしまうのである。
また、前述の『ルカ伝』第14章26節の言葉を神学研究者や説教家は意味を弱めて解釈し、説教しているのである[p.72]。「憎む」という表現を「あまり愛していない」に、また「ないがしろにする」「気にかけない」「無視する」と意味を弱めて、あたり触りのない解釈を施し、世俗の倫理との折り合いを図っているというのである。キェルケゴールは「こういう値切り買いをして、キリスト教をこの世に密輸入することが出来ると思っているかの敬虔な博識な釈義家」と皮肉り、「あの箇所は文字通り解釈されねばならない。神は絶対的な愛を要求するものである」としている。その一方で、個別者が個別者として振る舞うことを得意がるようになったが最後、最悪のことが起こりかねないと言って、『ルカ伝』の引用を控える理由を認めつつ、あのような箇所を挙げる勇気を持たない者はアブラハムの名を挙げることも許されないとしている[p.75]。アブラハムの偉大さは殺人によるのではなく、信仰によるものであり、信仰は殺人をさえ神聖な行為とするものなのである。アブラハムの出来事を他人事のように説教する牧師も、『ルカ伝』の意味を弱める釈義家も、ともに信仰へ厳しさが欠け、倫理と宗教の間の葛藤、つまりディレンマが欠落しているのである。
第二節 沈黙の意味
『畏れとおののき』では、問題三として、「アブラハムが彼の計画を、サラにも、エリエゼルにも、イサクにも黙して語らなかったのは、倫理的に責任を問われるべきことであったか?」ということが問われている。ここでもまず、倫理的なものは倫理的なものである限り、普遍的であり、普遍的である限り、それは顕なものであるということが示される[p.82]。倫理的であろうとする限り、アブラハムは語らねばならなかったのであるが、アブラハムは沈黙を守ったのである。
神に対する絶対的な義務が存在するのかという問において、神が抽象化され、普遍的なものと見なされるやいなや、その神は絶対性を失ってしまうことが明らかにされたが、このことはまさにアブラハムが自分の行為を語らなかったということとパラレルな関係にある。つまり、アブラハムが語る、すなわち、自己の行為を説明することは、自己の行為を抽象化し、普遍化することなのであり、それを行なうやいなや、アブラハムは神との絶対的な関係を保てなくなるのである。倫理はアブラハムに普遍的な言葉で語ること、イサクやサラや周りの人々が納得するように説明することを要求する。そしてその要求に応じて、アブラハムが語ったとすれば、彼は悲劇の英雄として理解されうる存在となったであろう。しかし、彼は沈黙を守って個別者として留まったのである。ここで注意しなければならないのは、ただ単に隠れたまま(沈黙を守ったまま)でいるのなら、罪を犯し、誘惑におちいっているのと、何ら変わらないことになってしまうことである。キェルケゴールは、個別者が個別者として、普遍的なものよりも高くにあるとことに根拠を持つ隠れというものがなければ、アブラハムの態度は弁解の余地はないと指摘している[p.82]。まさにここで、信仰の逆説が要請され、アブラハムの信仰が問題となる。アブラハムは罪によって、個別者となったのではないのである。それとは逆に、彼は高潔なる人であり、神が彼を選んだのである[p.99]。アブラハムは神に選ばれ、神との私的で絶対的な関係を守るために、沈黙を守ったのである。
信仰とは個別者が普遍的なものよりも高くあり、個別者が個別者として絶対者に対して絶対的な関係に立つという逆説であるが、この立場は決して媒介されない。なぜなら、すべての媒介は普遍的なものによってのみ行なわれるからである[pp.55-56]。語ること、説明することには、必ず普遍的な言語による媒介が前提となるのである。逆説は「思惟によっては近づきえない」[p.55]ものであり、言語の媒介によって決して顕に出来ないのである。すなわち、信仰の逆説はそもそもが語りえないものであり、思惟によっては近づきえないものなのである。
『畏れとおののき』においてキェルケゴールは、信仰の逆説について思惟をめぐらし、それをしきりに語ろうとしているかにみえるが、彼自身、信仰の逆説は、決して思惟によって近づきうるものでもなければ、語りうるものでもないことを十分に承知しているのである。語りえないものを語ろうとすることは、そもそもが不可能であるが、語りえないものの存在を示唆することは可能なのである。もし、このような普遍的な言語によって語りえない逆説が存在しないのならば、アブラハムは空しいものとなり、信仰はこの世に存在してこなかったことになる[p.55]。換言すれば、キェルケゴールにとっては、もし、すべてのことが普遍的なもののもとで明らかにされ、個別者は普遍に従うべきもの、社会倫理的なものに従うべきものであるとしたら、神との絶対的な関係、信仰の意味が失われてしまうのである。もちろん、キェルケゴールは、普遍的なもの、倫理的なものの重要性を認めた上で、それを越えたもの、それを目的論的に停止しうるものがなければ、絶対的な信仰というものが見失われてしまうというのである。
このことを我々に即して言うならば、普遍的、倫理的なものに価値を認めつつも、個別者は普遍へと一致し、普遍的なもののもとですべてが顕にされねばならないならば、我々は空虚を感じざるをえないのである。キェルケゴールは、普遍へと同化できない個別者を絶対的な神の前で見たのであるが、絶対的な神を持たない我々としても、普遍へと同化できない何か固有のもの、決して媒介され得ず、語りえない個別者固有のものを持っているのである。