[キェルケゴールの『畏れとおののき』におけるディレンマの問題]


第三章 ディレンマの問題

 第一節 ルターのアブラハム解釈

 19世紀の神学者は、哲学者や歴史家よりもルターから遠いところにいたと言われ(1)、キェルケゴール自身がルターを読み始めるのは、1847年以降のことである(2)。キェルケゴールの生きたデンマークでは、ルター派プロテスタント教会を国教会としていたがゆえに、キェルケゴールにも何らかのルターの影響があったことは確実であり、その影響を無視する訳にはいかない。

 そこでまず、ルターの『ガラテア書講義』(3)を見れば、アブラハムによるイサク供犠の物語についてのごく簡単な言及が見られる。それによれば、アブラハムがその子イサクを犠牲として捧げるよう命じられたのは、律法であり、アブラハムの行いは神を喜ばせ、他の儀式上の行ないと同様に神を喜ばせたというのである。そして、アブラハムはこの行いによって、義とされたのではなく、信仰によって義とされたとして、『ローマ書』第4章3節の「アブラハムは神を信じ、それが神の義と認められた」が引用されている。つまり、ルターは、信仰と行ないを区別して、アブラハムの行ないではなく、信仰に重きを置いているのである。この点は、信仰と行為の一致を考えるキェルケゴールと対称をなしている。

 また、ルターは、『創世記講義』(4)において、『創世記』の一文一文に詳細で膨大な注釈を施し、語源的な探求や行為の解釈、登場人物の心的状況の推測など、多岐にわたって追求している。そしてルターは、人々が『創世記』に対して抱くであろう疑問を想定し、それへの反論を試みて、人々を信仰に導こうと企てている。そこで想定される疑問は、人間が理性的に考えれば不可解と思える神の行為についてや、アブラハムの行為についての言及が多数見られる。これを見ると、『畏れとおののき』に先行して、人々がアブラハムの行為をどのように捉え、どのように解釈していたか、これに対するルターの批判や解釈を伺い知ることができるのである。

 例えば、ルターは、神はアブラハムにイサクを約束の子として授けながら、どうして今度は燔祭として捧げよと命じたのだろうかという我々が通常思いつくような疑問を想定している。そこにおいてルターは、神は自分の約束を後悔したからイサクを燔祭として捧げよと命じたのか、それとも、アブラハムが神を怒らせるような罪を犯してしまったのかなどという理由が考えられている。また、なぜアブラハムが神を怒らせてしまったのかというアブラハムの側に立った考察もなされ、イサクを授けられることを誇りに思い過ぎて、神への感謝が足りず、それによって神が後悔してしまったのだろうかと、アブラハムの心情が想像されている(5)。

 さらに、アブラハムと、エレサレムで息子を失ったマリアとの対比も行われている。マリアの場合は、息子が生きてかえってくるという希望を持てたが、アブラハムの場合は、息子を授けてくれた神自身が殺せと命じたので、息子が戻ってくるという希望が持てるだろうか(6)というのである。

 ルターは『創世記』の記述から踏み込んで、サラは何も事情を知らなかったのだろうと推測している。その理由としてルターが挙げているのは、彼女はこの大きなショックに絶えるにはあまりに弱いので、アブラハムは事情を隠していたのだろうというのである(7)。さらに、アブラハムが、三日目に同行の供の者を置いて、イサクと二人で山へと入って行ったが、その理由としてルターが考えているのは、もし供の者を同行すれば、彼らはアブラハムが息子を捧げようとすることを止めるかもしれないし、気が狂ったと疑うかもしれないからだというのである(8)。

 これらをみると、ルターの批判はおくとして、あたかもアブラハムが神によって本当にイサクの命を取られてしまうと思っていたかのごとくである。つまり、アブラハムは神を信じていたので、イサクを燔祭として捧げよという命令を受けても、必ず神はイサクを助けてくれるという逆説を信じていたとされる一方で、アブラハムは、神によって生け贄の羊が差し出されることを知っていたのでもなければ、イサクの復活を信じていたのでもなく、本当に自分の子どもを殺そうとしていたと読めるのである。

 しかし、他方、ルターによれば、確かに人間の理性では、神の約束(約束の子としてのイサク)が嘘だったのか、イサクを捧げよという命令が、神ではなく悪魔によるものだったのかと結論づけざるをえないという(9)。しかし、ルターは、アブラハムが復活によって矛盾が解決すると理解していたともいうのである(10)。それは、今日、息子を持ち、明日には死んで灰となったとしても、いつか必ず復活するという考えである。もし、このようにアブラハムが考えていたとするならば、アブラハムは神がイサクを必ず生き返らせてくれると確信していたことになるのである。

 この物語は神による試練として読まれるが、もしこのことをアブラハムが知っていたら、不安は少なかっただろうとルターは主張している(11)。ここで考えられるのは、アブラハムが単なる試練だと了解していたのなら、彼は何のディレンマを感じることもなく、たかをくくってモリアの山へ出向いたであろうということである。そして、アブラハムは、イサクやサラにも自分の行為を説明することが出来ただろうし、供のものを何のためらいもなく山頂まで同行できただろうと考えることもできるのである。

 さらに、ルターはアブラハムの心境を問うている(12)。それは我々がアブラハムに深い葛藤を見てとることを彼が予測しているからである。例えば、イサクがモリアの山で犠牲の子羊はどこにいるかと尋ね、神が与えてくださるだろうとアブラハムが答える場面では、そこには深い感情と力強いパトスがあるという(13)。ここで考えられるのは、もしアブラハムがイサクの復活を単純に確信していたのなら、そこには深い感情やパトスなどは必要なく、神が子羊を与えてくれるというおそらく事実となるだろうことを語るだけであるか、また、イサクの生命が何らかの形で保証されていると確信していたのなら、取りたてた感情の動きなどないだろう。大きな心的な運動を見るのは、アブラハムが真に息子を愛していると同時に、殺さねばならないというディレンマをみるからであり、アブラハムが息子に嘘をついていると考えるからなのである。アブラハムは「お前が羊なのだ」と答えるべきだったが、そうとは言わずに「神が与えてくださる」とだけ付け加えたのである。少なくともルターはアブラハムのその答えのうちに我々がディレンマを読みとることを想定しているのである。

 キェルケゴールの『畏れとおののき』では、アブラハムが語ることが出来ない点に苦悩と不安があるとされる[p.113]。その一方で、『創世記』では、アブラハムはイサクに神みずからが燔祭の子羊を備えてくださるであろうとのみ語ったとされている。我々は、アブラハムがあらゆる瞬間に背理なものによる信仰の運動を信じ、神によってイサクが復活させられると信じていたのなら、アブラハムは嘘を言ってイサクを騙したのではないと考えることができる。この場合、アブラハムは淡々と神の命令に従っただけであり、イサクを燔祭とすることに深い倫理的な罪意識を感じる必要がなかったということもできよう。その一方で、アブラハムは、不安と苦悩をもって、イサクを犠牲に捧げようとしていたとするならば、イサクに気休めの嘘を言って、イサクを燔祭として捧げようとしたと考えることが出来る。もしそうでないならば、アブラハムはイサクに「実はお前が燔祭の羊なのだが、神は背理なものの力で羊を与えてくださるかもしれないし、そうでなかったとしても、いつか必ず復活させてくれるだろうから、安心するがよい」などと、説明することも可能であったはずである。それにもかかわらず、アブラハムはイサクが死ぬべき運命にあることを明らかにせず、イサクの喉にナイフを突きつける瞬間まで「神みずからが燔祭の子羊を備えてくださる」ということ以外は何も言わずに、イサクを捧げようとしたのである。キェルケゴールによれば、もしアブラハムが「私は何も知らない」とイサクに説明しても、それは非真実を言ったことになるという。アブラハムが語ることが出来た唯一の言葉「神みずからが燔祭の子羊を備えてくださる」によって、アブラハムは、何ら非真実を言っているのではなく、しかしまた、何かを言っている訳でもないというのである[p.118]。

 『畏れとおののき』では、「調律」の章において、詳細なアブラハムの心理描写を付け加え、創作を交えた四つの物語が提示されている。ここでまずはじめに提示される物語は、イサクを燔祭として捧げることをアブラハムがイサク本人に説明する場合が想定されているのである。そして、いくら説明しても燔祭とされることを諾としないイサクに対して、アブラハムは「これが神の命令だと思っているのか? そうではなく、これはわしの望みなのだ」と、イサクの胸ぐらをつかみ、地面に投げつけて叫ぶのである[p.10]。次の物語では、神から子羊が与えられた後、モリアの山から帰宅したアブラハムがイサクに対して顔向け出来ずに老けこんでしまうという話が想定されている。さらに、アブラハムが、イサクを捧げようとしたことを、父としての義務を忘れていたとして罪を許すように神に嘆願する話、そして最後には、燔祭となったイサクが、アブラハムの拳が絶望に握りしめられて、全身がわなないているのを見てしまったことによって、信仰を失ってしまったという話が創作されているのである。以上のようにみれば、このようなキェルケゴールによるアブラハム描写は、内容的にルターの『創世記』解釈に対応しているのである。

 第二節 「信仰」の優位と「信仰の騎士」

 『畏れとおののき』において、アブラハムは驚嘆に値する信仰の騎士とされるのであるが、それはアブラハムが神に対して個別者として絶対的な義務を遂行した信仰ゆえであるとされる。しかし同時に、必ずしもアブラハムの狂信的な側面のみが取りあげられているのではない。例えば、信仰の騎士は、普遍的なものに属することが素晴らしいことであるのを知っていると同時に、普遍的なものよりも高いところに、孤独な小径が、狭く、そして険しく、うねりくるっているのを知っているというような記述がみられる[pp.75-76]。信仰の騎士は、単なる個別者であることから、普遍的なものを知った上で、再び信仰という名の個別者への道を見つけた者なのである。つまり、倫理と信仰との間に何のディレンマの余地がない単純な信仰優位と異なるのである。

 『畏れとおののき』には、アブラハムの物語に見落とされているのは不安なのであるという記述[p.28]や、人は結果を知りたがるが、不安や苦難、逆説には少しも耳を貸そうとしないという記述が見られる[p.63]。さらに、これは恐ろしいことであると見えない人は信仰の騎士ではないということや[p.77]、苦悩と不安とが、およそ考えられうる唯一の資格であるということなども語られている[p.113]。こうして、アブラハムの苦悩や不安を見落としてはいけないことが繰り返し語られているのである。『創世記』のアブラハムは、何の躊躇もなく、ただ淡々と神の命令に従ったかのように書かれているが、『畏れとおののき』で描かれたアブラハムには、深い葛藤があるのである。また、キェルケゴールは、アブラハムの物語を単なる試練として解釈する俗説にも反対している[p.52]。そして、モリアの山への行程が三日あったという記述に注目し、アブラハムにとって、如何に旅の時間が長かったかを強調している[p.53]。この物語をただ単にアブラハムが神の試練を淡々と忠実にこなしたのだと考えるのならば、彼の物語は表面的な物語となってしまうのである。アブラハムがモリアの山へ向かい、イサクを縛り、燔祭として捧げようとするまでの時間を語ることは、その時間にアブラハムが味わったであろう葛藤を自分の問題として受け取り直すことである。つまり、アブラハムが如何に悩んだかという試練の苦痛を描写する必要があるのである。

 もう一度、『ルカ伝』第14章26節(「誰でも、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分自身の命までも憎んで、私のもとに来るのでなければ、私の弟子となることは出来ない」)を取り上げることにする。キェルケゴールは、「あの箇所は文字通り解釈されねばならない。神は絶対的な愛を要求するものである」としつつ、ある夫が妻に父と母を捨てよ要求する話をそれに対比させている[p.73]。キェルケゴールはそのような夫を利己主義者であると同時に愚か者と見なす。父と母を捨てることを自分に対する妻の愛の証拠であると夫が考えるならば、そのような夫は愚かものなのである。夫が愛とはどのようなものであるかを知っていたら、彼は自分の妻が、娘として、姉妹として、愛において完全であることを見出したいと願うであろうと、キェルケゴールは考えるのである。

 『ルカ伝』の場合と、自分への愛を確かめるために妻に父母を捨てろという男の場合における相違は、神への愛と夫への愛のあり方の違いである。この夫の例においても、単に妻が父母を憎むために、要求したのではない場合も考えられるが、少なくともアブラハムの場合、彼はイサクを犠牲に捧げようとする瞬間でもイサクを愛していたのである。もし、アブラハムがイサクを憎んでいたのなら、神は犠牲としてイサクを捧げることを要求しなかっただろうと考えられる。絶対的な義務は、倫理学なら禁止するようなことを行わせることができるけれども、絶対的な義務も信仰の騎士をして、愛することをやめさせることは出来ないところに、逆説があり、ディレンマの意味を見なければならないのである。

 ある人が、悲劇的英雄への道を歩みだそうとする時、多くの人が忠告を与えることが出来るが、信仰の狭い小径を行く者には、誰も忠告を与えることは出来ないし、誰も彼を理解することが出来ない。信仰は奇蹟であるが、如何なる人も信仰から閉めだされていない。なぜならすべての人間の生活を一つにつなぐものは情熱であり、信仰とは情熱だからである。しかし、同時に、逆説を容易だと思う人は、信仰の騎士ではなく[p.113]、信仰は困難な道であり、誰にでもまねができるものではない。個別者が個別者として振る舞うことを得意がるようになったが最後、最悪のことが起こりかねないという恐れや[p.75]、個別者が本当に誘惑におちいっているのかどうか、あるいは彼が信仰の騎士であるかどうかは、ただ個別者が決定しうるばかりであるという事実[p.79]など、我々はアブラハムによるイサク供犠の物語を前にした時、極めて難しい問題に直面する。それにもかかわらず、個別者が個別者としてあるような信仰がないならば、人生は虚しいものとなるのである。信仰は殺人をさえ神聖な行為と考える一方で、アブラハムの偉大さは殺人によるのではなく、信仰によるのである。信仰の騎士は、普遍的なものに属することが素晴らしいことを知っているのであり、それと同時に、普遍的なものよりも高いところに、孤独な小径が、狭く、そして険しく、うねりくるっているのを知っているのである。そして、倫理的なものと宗教的なもの、普遍的なものと個別的なものの間にあるディレンマには、深い葛藤に伴う不安や苦悩が存在するのである。「個別者が個別者として、絶対者に対して絶対的な関係に立つという逆説が現実に存在し」「アブラハムが空しく」ないというならば、そこには深い葛藤にともなう不安や苦悩が存在し、このような不安や苦悩のうちに信仰への道が存在しているのである。まさに、このことが『畏れとおののき』におけるディレンマの意味なのである。

[註]

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