第一節 カントのアブラハム解釈
カントは何よりも自律的な理性を重んじたが、その宗教観も、迷信や非道徳的な要素を批判し、「単なる理性の限界内での宗教」に関心の目をむけている。キェルケゴールが信仰の騎士として讃えるアブラハムについても、カントは、アブラハムが息子イサクを燔祭として捧げようとした行為に対して、非道徳的な要素を認め、冷静な批判の目をむけている。例えば、カントは『学部の争い』において、以下のようなことを論じている(1)。「もしも神が人間に現実に語りかけることがあるとしても、人間は自分に語りかけたものが神であることを決して知ることができない。人間が自分の感官を通して、無限者を理解し、これを感官的存在者と区別し、何かに即して識別することは絶対不可能である。――しかし自分がその声を聞いたと信じているものが神ではありえないことについて、人間は若干の場合にはよく確信しうるのである、けだし、もしその声によって彼に命ぜられるものが道徳法則に反しているならば、たとえその声の現象が彼にとってどんなに威厳に満ち、全自然を踏み越えているように思われようとも、彼はその現象を錯誤と思わざるをえない」というのである。
以上のように考えれば、アブラハムが聞いたという啓示も、果たしてそれが本当に神の声であったかどうかはわからないのである。後にみるルターにしたところで、イサクを捧げよという命令は、神ではなく悪魔によるものだったかもしれないという疑惑が指摘され、その一方で、別の箇所で夜の静かな時に神の声を聞いたのであろうと推測され、啓示そのものの信憑性は疑われていない。しかし、カントにおいては、こういう啓示が、本当にあったとしても、それが本当であると識別することは人間にとって絶対不可能であるというのである。そして、如何に信憑性があろうと、その命ずるものが道徳法則に反しているならば、錯覚であると思わざるをえないというのである。
カントはこれについて次のように注記している。「アブラハムが神の命令によって彼のひとり子を屠殺し燔祭に捧げることによって、――(その哀れな子は何も知らずにたき木を背負って行った)―― 実行しようとした犠牲の神話が役立つかもしれない。アブラハムはおそらくこの自称の神の声に次のように答えざるをえなかったであろう。『私が私の善良な息子を殺すべきではないことは全く確かでありますが、私にいま現象している貴殿が神であることについては私は確かではなく、またこれからも確かになりえないでしょう』と、たとえその声が(目に見える)天の上の方から響いてきたとしても、彼はこう答えざるをえなかったであろう。」というのである(2)。啓示が確かかどうか判らなくても、自分の無実の息子を殺してはいけないことは確かなのである。カントはアブラハムが背理な力によって神がイサクを復活させるであろうと信じていたことは問題としない。カントは、息子を捧げよという神の啓示そのものを不確かなものとして斥けるのである。さらに、捧げた息子が復活する可能性ともなれば、ますます不確かなものであり、そんな不確かな奇蹟を信じるよりも、無実の息子を殺すべきでないことの方が、より重要であり、守るべきことなのである。
次に、カントは『宗教論』(3)でも、信仰における良心についての言及の中で、アブラハムに触れている箇所を見つけることができる。そこでは、殉教をも辞さいないある宗教審判官が、不信仰の件で訴えられたいわゆる異端者に死刑の判決を下す事例が示されている。その宗教審判官は、超自然的に啓示された神的意志がそのことを許すという確固とした信仰をおそらく持っていたのだろうが、こうした啓示された教えとその意味とを、そのためにあえて一人の人間を殺す必要があるとするほど実際に強く確信していたのであろうか、とカントは問う。そして、「自分の宗教信仰のために一人の人間の生命を奪うのが不正であることは、特別の仕方で彼に知られた神的意志がとくにそのように命じた(極端な場合を認めるとして)のではないとすれば、確実である。だが、神がこの恐るべき意志をかつて表明したということは、歴史的文書に基づくものであり、決して確然的に確実なのではない」というのである。ここでは、ある宗教審判官が、異端者を処刑する例が考えられているが、果たして異端者を処刑することが、本当に神の命であったかどうかは不確かであり、自分の宗教的な信念のために、一人の人間の生命を奪うという行為が不正であることの方が確実であるというのである。
そして、カントはこれに続けて、アブラハムについて言及している。「啓示は所詮はただ人間を介してのみ彼に到達し、また人間によって解釈されるので、たとえ啓示が神自身から彼に到達するように思われたとしても(汝自身の子を羊の如くに屠れという、アブラハムに発せられた命令のように)、そこになおある誤謬が支配しているかもしれないということは少なくとも可能である。そうだとすれば、彼はきわめて不正であるかもしれない事柄をなす危険をあえて冒すことになるであろうし、その点で彼の行為はまさしく無良心的なのである。――ところで、歴史信仰や現象信仰のすべてについて、事情は同様である。つまりそのうちに誤謬が見出される可能性は常に残っているのであり、したがってその信仰が要求したり許容したりする事柄が不正であるかもしれない可能性がある場合にそれに従うのは、つまりそれ自身確実な人間の義務を毀損する危険を冒してもそれに従うのは、無良心的なのである。」(4)という。つまり、アブラハムにとっても、イサクを燔祭にせよという神の啓示よりも、息子を殺すなという義務の方がより確実であり、守るべきでものなのである。
第二節 キェルケゴールにおける倫理的なもの
キェルケゴールは倫理的なものに関して、「倫理的なものは倫理的なものである以上、普遍的なものであり、普遍的なものである以上、すべての人に妥当するものである」と定義している[p.54]。ここでいう倫理的なものとは、世俗の単なる約束事に過ぎないというのではなく、すべての人に妥当するような普遍的な規則のことである。アブラハムに即していえば、「父たるものは自分以上に息子を愛すべきである」[p.57]ということであり、一般的な道徳法則でいえば、「殺すなかれ」といったものをさしている。そして、個別者が自己の個別性を主張しようとすることは倫理的には罪なのである。
しかし、それと同時に、キェルケゴールは、このような倫理的なものの重要性を認めつつも、人間のテロスとしての永遠の至福、即ち宗教的なものを無視する訳にはいかないのである。倫理的には個別者としての自己自身を捨て、普遍的なものを認めることが、罪から逃れうる唯一の方法である。その一方で、宗教的には普遍的なものに留まる限り、永遠の至福を得ることが出来ないのである。このことは、後にしきりと繰り返されることになるが、それは普遍的なもの(即ち倫理的なもの)を越えたところに、個別的なもの(宗教的なもの)がなければ、この世は空しくなってしまうことでもある。アブラハムに即していえば、普遍的なもの(父は息子を愛すべきである)が、信仰の見地から停止されないとすれば、アブラハムは単なる殺人者であり、アブラハムの行為は空しくなってしまうのである。
『畏れとおののき』では、信仰の騎士とされたアブラハムに対して、アガメムノン、エフタ、ブルータスという三人が悲劇的英雄として対置されているが[p.58]、アブラハムが宗教、個別性の立場だとすれば、後者は、倫理、普遍性の立場である。これら悲劇的英雄も、自分の子どもを殺そうとした点では、アブラハムと同様であり、その行動は倫理的なものの内部で説明されうるのである。キェルケゴールによれば、アガメムノンが娘を犠牲に捧げたのは神を宥めて嵐を静めるためであり、エフタが娘を神に捧げたのは、民族の運命を決する誓約によったのであり、ブルータスが息子の処刑を命じたのは国法に従ってのことであった。これら悲劇的英雄の場合は、ある倫理的なもののために、別の倫理的なものが停止されたのである。つまり、悲劇的英雄は、いっそう確実なもののために、確実なものを放棄するのである[p.60]。いわば普遍的なもののために私益が犠牲になった事例とも考えられるが、こういった行為は少なくともその共同体においては理解され、賞賛されるのである。
確かに、アブラハムに対置される悲劇的英雄も、自分の子どもを殺そうとする点では、アブラハムと同様に倫理的な罪を犯しているようにみえる。しかし、アブラハムとの違いは、別の倫理的な規則にかなって行われた点にある。父たるものは子どもを愛せねばならず、殺人は悪であっても、共同体において、殺人を行うことが要求されているのである。自分の情愛を捨て、私益を捨て、自分の子供を愛さねばならないという、また、殺人は悪であるという倫理的規則が、国家のため、公共のためという別の倫理的規則によって停止されたのである。これらの悲劇的英雄は、そういった規則に基づき、それぞれ自分の子どもを殺し、それによって英雄として讃えられてきたのである。いわば、倫理的な規範の内部で、ある倫理的なもののために、別の倫理的なものを切り捨てて、それによって理解され、認められているのである。
現代ならば、如何なる殺人も悪であると考えことが、真に普遍的・倫理的なものであるといえるが、キェルケゴールにとっては、このようなことはなく、歴史的事実や当時の時代背景としても、殺人によって英雄とされた事例が多数あったのである。キェルケゴールは、こうした悲劇的英雄の立場を認め、その上で、信仰の騎士をこれよりもより高い段階として位置づけるのである。アブラハムが普遍的なものを踏み越えたのは、民族を救うためでもなく(エフタ)、国家の理念を主張するためでもない(ヘーゲル)、また、怒れる神をなだめるためでもない(アガメムノン)として[p.59]、その相違に焦点を当てているのである。
普遍的な道徳規則を認め、人間である限り、守らなくてはならないものであることに同意しつつも、それを越えたところに、絶対的宗教的な価値があるのではないかというのが、キェルケゴールの主張である。倫理的なものに対して、個別者が自己の個別性を主張しようとすることは誘惑(5)であり、罪であるとし、倫理的なもののの重要性を認めつつも、それを越えたところに宗教的なものがなければ、信仰の意味、個別者としての人間存在の意味が空しくなってしまうのではないかというのである。
さらに、このようなキェルケゴールのアブラハム理解は、ヘーゲル批判ともなっている。ヘーゲルにとって、アブラハムは奴隷的精神を代表する典型であり、なんら信仰の典型でもなければ、父としての義務も果たしていないというのである(6)。キェルケゴールは、このようなヘーゲルに対して、「ヘーゲルが信仰について語るのは正しくないし、アブラハムは、人殺しとして獄に投ぜられ、追放されねばならないはずなのに、信仰の父として名誉と声望とを受けていることに対して、声高らかに、かつはっきりと、抗議をしていないのも正しくない」[pp.54-55]として、批判している。しかし、実際は、ここでキェルケゴールが指摘しているように、ヘーゲルは直接的にアブラハムの行為を非難していないが、ヘーゲルの信仰観からすれば、ヘーゲルはキェルケゴールがいう倫理的なものの目的論的停止や私的な企てとしての信仰、神の前での単独者といったことと、真っ向から対立しているのは明白である。キェルケゴールの倫理的なもの、普遍的なものへの批判は、ヘーゲルを意識しているのである。
すでにみたようにアブラハムの行為について、倫理的な立場から明確に批判を行なっているのはカントである。カントは信仰の非道徳的な要素を厳しく批判し、倫理的なものの目的論的停止などは許されないのである。アブラハムのこの行為とて例外ではなく、アブラハムは信仰の騎士などではありえない。先に示したように、神からの啓示が如何なる形であったとしても、己の内なる理性の声に従い、道徳法則を守るべきであるというのである。無実の息子を殺すことが悪であることは、普遍的な道徳法則であり、理性の声に従うならば万人に妥当しうるであろうということを、カントは前提にしているが、果たしてそう断言できるのかどうかは疑問の余地が残る。カントは「私が私の善良な息子を殺すべきではないことは全く確かでありますが、私にいま現象している貴殿が神であることについては私は確かではなく、またこれからも確かになりえないでしょう」(7)というが、どちらがより確実であるかは、実のところ判らないのである。つまり、ある人にとっては、自分の善良な息子を殺すべきでないことが確実なことであるかもしれないが、別の人にとっては、神の声を聞いたということの方が、より確実だと思えることがあるのである。神の声の方が確実だと盲信している人に、息子を殺すべきではないという良心の声の方がより確実だろうと主張したところで、どちらも確実だという根拠を示すことは出来ず、水かけ論に終わるのである。ここで注意しなければならないのは、カント自身も『宗教論』の「自分の宗教信仰のために一人の人間の生命を奪うのが不正であるということは、特別の仕方で彼に知られた神的意志が特にそのように命じた(極端な場合を認めるとして)のではないとすれば、確実である」(8)という箇所において、「その極端な場合を認める」として、例外があることを認めている。つまり、特別な仕方で、神的意志が命じる場合が全くないとは言いきれないのである。
第三節 神に対する絶対的義務
次に問題となるのは、倫理的なものを停止させるという宗教的なもの、すなわち、信仰とはいったい如何なるものなのかということである。キェルケゴールは、信仰が逆説的なもであると主張している。信仰とは個別者が普遍的なものよりも高くあり、個別者が個別者として絶対者に対して絶対的な関係に立つという逆説なのである[pp.55ー56]。アブラハムは、背理なものの力によって行動し、背理なものの力によってイサクを取り戻すのである。もし、アブラハムに信仰がなく、背理なものの力を信じていなかったとしたら、決してイサクを犠牲にするにはいたらなかったか、それともイサクを捧げて後悔することになっただろうというのである[p.57]。それゆえ、アブラハムは、殺人者であるのか、信仰者であるのかのどちらかであり、悲劇的英雄の救いとなるような中間規定はない。悲劇的な英雄を理解することは出来ても、アブラハムを理解することは出来ないのである。アブラハムに対してはただ驚嘆することが出来るのみであり、そのことはまさにアブラハムと悲劇的英雄との質的な相違によるのである。
アブラハムの行為は、前述の悲劇的英雄とは異なり、あくまでも私的で個別的なものであり、自分自身の信仰のためのものである。いずれも神に対して自分の子供を供犠とした事例であるが、悲劇的英雄が倫理的なもの(普遍的なもの)のために子を慈しむべきだという倫理的なものを停止したのに対して、アブラハムの場合はあくまでも自分が「無限なものを捉えるために、有限なものを放棄した」[p.60]のである。これが倫理的なものの目的論的停止である。ここでは、個別者が個別者として普遍的なものよりも高くあるという逆説[p.62]、すなわち倫理的な罪を犯しつつ、神を信じるというアブラハムの逆説が見られるのである。そして、その逆説は決して媒介されることのない逆説であり、説明したり、理解することは出来ず[p.66]、神に対する絶対的な義務という点からのみ示されるのである。
『畏れとおののき』では、問題一として「倫理的なものの目的論的停止は存在するか?」ということが問われ、問題二として「神に対する絶対的義務が存在するか?」ということが問われている。キェルケゴールにとって、あらゆる義務は神に対する義務であり、もしもそれ以上のことを言わないのならば、もともと神に対する義務など持たなかったことになるのである[p.68]。神を愛することが私の義務であるという場合、「神」が抽象的な意味において「神的なもの」、すなわち普遍的なものであり、義務と解されている限り、同じことを別の言葉で言い換えているだけに過ぎないのである。すなわち、神への義務を隣人への義務、普遍的なものへの義務と同じような位相で用いるならば、神に対する絶対的な義務は存在しえないことになる。普遍的なもの、倫理的なものに従わなければならないという場合、その義務は自己完結的な義務の体系として、相対的な力しか持ちえない。義務が絶対的なものとなるためには、絶対的なものが措定されなければならず、倫理的なものが人間的な関係のうちに完結している場合、そこには決して絶対的な義務など生じる余地がないのである。これに対して、個別者としての「私」の絶対的な神に対する絶対的な関係は、いわば唯一無二のものである。その神が抽象化され、普遍化されてしまえば、神と私の関係も抽象化され、普遍化され、どこにでもありうるものとなり、唯一無二のものではなくなる。そしてそれは、一般化された、どこにでも有りうるものとなり、もはや絶対的なものではないのである。
アブラハムの行動は、あくまでも神との絶対的な関係を保ち、神の前での単独者として、普遍的なものよりも高くにあるという逆説を体現しているのである。キェルケゴールは、『ルカ伝』第14章26節の「誰でも、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分自身の命までも憎んで、私のもとに来るのでなければ、私の弟子となることは出来ない」を引用し、その意味を弱めることなく字義通りに解釈しなければならないと主張している。それは神に対する絶対的義務について語っているのである[p.72]。アブラハムの神に対する態度も、まさにこの絶対的な義務を遂行したものなのである。信仰とは、一面では、その行なう恐ろしいことを自分自身のためになすという極度の利己主義の表現であり、他面では、それを神のために行なうという最も絶対的な献身の表現であるという。信仰の逆説が、中間項(普遍的なもの)を持たないのは、信仰というものが普遍化されてしまうと同時に廃棄されてしまう性質を持っているからなのである[p.71]。
キェルケゴールにとって神に対する絶対的な義務は、もしそれが存在するとすれば、個別者が個別者として普遍的なものよりも高くあり、個別者として絶対者に対し絶対的な関係にあるという逆説であり、もし、そのような神に対する絶対的な義務が存在しなければ、アブラハムは空しかったことになるのである。