『ロビンソン・クルーソー』における倫理と宗教

 ・ 要約・序

 ・ 1 信仰の揺れ

 ・ 2 改宗の問題

 ・ 3 生命尊重の問題

 ・ 註・参考文献


1 信仰の揺れ

 『ロビンソン・クルーソー』を読むと、倫理的・宗教的考察の多さに驚かされる。倫理的・宗教的な考察は、冗長で繰り返しが多く、余計な部分だと見なされることが多い。それらを省略した海賊版の登場に悩まされた著者は、第二部の序文に、この物語は、「宗教上および処世上の推論があらゆる部分から引き出せ」、「宗教的・倫理的反省こそが、最大の美点であり、省略版をつくることは真価を冒涜することである」と警告を発している[Up.1]。また、T部U部に対するコメントとして書かれた『反省録』は、まさに倫理や宗教の問題を論じたもので、その序文で「物語fableがあって、そこから教訓moralが作られるのではなく、いつの場合も教訓があって、そこから物語が作られてゆく」のであり、「寓話parableや寓意物語allegoric historyの唯一の正しい目的は、道徳的・宗教的教化」であり、『ロビンソン・クルーソー』は、まさにこれにあたるというのである[V序pp.9ー12]。すなわち、『ロビンソン・クルーソー』には、倫理的・宗教的な主題があって、そこから物語が語られているというのである。

 確かに、『ロビンソン・クルーソー』には、物語の随所に倫理的・宗教的考察があり、そこから様々な思想を読み取ることが出来るが、ロビンソンは、神を思い、しきりに反省を繰り返す一方で、すぐに反省した内容を反古にし、祈ることをやめたりするなど、必ずしも信仰一辺倒ではない側面がある。このことは、「或一箇の事件を各方面から彼れ此れと煎じ詰めて詮索するのがディフォウの特徴である」(8)と言われるごとく、物事を多面的に論じたり、相反する心の揺れを率直に写実することは、まさにデフォーの作品の特徴であり、デフォー本人の一筋縄ではいかない奥深さとパラレルな関係になっているといえよう。それゆえ、従来の解釈を見れば、ロビンソンを敬虔なプロテスタンティズムの典型と見る一方で、極めて世俗的であり、宗教的教訓云々という序文は、世の中に広く受け入れられるように、方便として書かれたものに過ぎないという見解もある。果たしてロビンソンは信仰深い人間なのかどうか、ここではまずロビンソンの信仰の揺れの問題を本文に即して考察することにする。

 物語の早々、ロビンソンは、父の忠告を無視して、航海に出かけるが、嵐が起これば天罰に違いないと後悔し、反省する。しかし、嵐がおさまると、後悔も過去の行為への反省も、将来への覚悟も、みんな消えてしまったというのである[Tpp.8-10]。ロビンソンは、その他、様々な局面ごとに、反省したり、開き直ったりしている。孤島漂着以降のロビンソンの心の揺れを追ってみれば、上陸後、天を仰いで神に感謝する[Tpp.37-38]。しかし、暗い見通ししか立たなくなってくると、なぜ神はこうも徹底的に被造物を滅ぼそうとし、なぜこうも悲惨な目に遭わせようとするのかと自問自答し、感謝することに疑問を感じている[Tp.51]。その後、すぐに思い直すのであるが、信心深いように見えながら、必ずしも絶対的に神に帰依している訳ではなく、つねに信仰の揺れが率直に表現されている。同じような例は多い。例えば、大麦を発見して神に感謝するが、自分が叩いた袋のことを思い出すと、神の摂理に対する敬虔な感謝の念が薄らぐと言う。その後、やはり捨てた場所が良かったのだと思い直し、神に感謝する。地震が起これば、「主よ、哀れみたまえ」と言ったものの、地震が終わると止めてしまったというのである[Tpp.63-65]。

 物語の一つのクライマックスになっているのが、ロビンソンの回心の場面である。激しい瘧に見舞われたことを契機に、今までは神について真剣でなかったと反省し、これが永年の生涯を通じて神に捧げた最初の祈りであるというのである[Tp.71]。ここにロビンソンの回心を見る見方が一般的である。これ以降、聖書を日課として読むようになるなど、ロビンソンの信仰心の高まりが示される。例えば、「私を呼べ、私はあなたを助けるだろう」という聖書の一節の解釈の深まりである。以前は、島からの救出が救いの名に値すると思っていたが、今は罪からの救済が問題であり、孤独な生活は問題ではないというのである。ロビンソンが、どのような罪を犯してきたのか詳細は明らかではないが、父の忠告に逆らったことを罪だと考えていたことは確かである。父の忠告とは、投機的な性行、放浪癖を戒め、中くらいの身分の者として、堅実に生きることを説いたもので[Tpp.5ー7]、ロビンソンは当時のピューリタン一般の例にもれず、父の忠告に逆らうことは、神の意志に逆らうことであり、これを原罪であると考えていたのである。また、召命としての職業を拒否することは、神の秩序に背き、神に対する不服従を意味するのである。こういった考えを中心にして、孤島でのロビンソンの孜々として労働に励む姿を、敬虔なプロテスタンティズムの担い手として捉え、イギリスの近代化をになった中産的生産者層の行動様式を理想化したものであるとする解釈(9)が一潮流を形成しているのである。しかし、ロビンソンは、労働に励んでばかりいたのでもなければ、最後まで放浪癖も改まることがなったのである(10)。信仰の揺れについても、心から回心して、初めての祈りを捧げた以降も、あまり変わるところがない。神を思い、思索を重ねるうちに、なぜ神が自分をこういう目にあわせたのか、自分が何をした故なのかと、疑問に思うようになるのである。もちろん、すぐに神を冒涜するようなことを思ったと反省するが[Tp.74]、同じような心の揺れが繰り返されていくのである。

 確かに、以前は孤島から救い出されたいということばかりを思って、嘆き悲しんでいたが、『聖書』を手にして、神を思うようになってからは、率直な神への感謝の心が記されている。その一方で、満足しようと努めているが、一所懸命に島から救われようと祈っているのであり、境遇に感謝しようとするふりをしているだけで、自分は偽善者ではないのかと、声に出して叫んだりしている[Tp.90]。本来ならば、孤島に流されたことも、神による試練と受け止め、感謝しなければならないのであるが、さすがにそこまでは出来なかったというのである。もし仮に、孤島での暮しを心から神に感謝していたのならば、オウムが「可哀想なロビンソン・クルーソー」[Tp.112]云々という言葉を覚えるはずもなく、神への感謝の言葉を喋るはずである。このことを見ても、デフォーはロビンソンを信仰一辺倒の人間として描こうとしていたのではなく、あれこれと思い悩みながら、信仰について考える人間として描こうとしていたことが伺われるのである。

 孤島で人間の足跡を発見したエピソードでは、恐怖心のあまりすべての宗教的な希望を失ってしまったとある[Tp.122]。神の恩恵としての不思議な経験に基づいていた今までの神に対する信頼は、消滅してしまったというのである。「今日、あるものを愛していても、明日にはそれを憎むかもしれない」と言うごとく、心の動揺が記されている[Tp.123]。神はせっかく自分を助けてくれたのに、どうしてその恵みの力を保つことが出来ないのかと不満に思うが、神の知恵が何を目指しているのか予見できないので、神の主権についてとやかく言うべきではないと思い直している。創造者としての神は絶対であり、罪を犯した人間として、神の怒りを耐え忍ぶ以外にないと考えたり、神は全能であり、私を罰し、苦しめることも出来れば、救うことも出来るはずであると考えたりもしている。ここには、絶対者としての神に畏れおののき、自己の原罪に対する試練に耐えるべきであるという側面があると同時に、救世主としての神にすがることによって、恩恵を受けたいという心が見えるのである。さらに、病気の回復に因んで、神は自分を救ってくれたが、自分は神をあがめず、救いに対して感謝をしていないと気付いたことがある。神をあがめず、救いへの感謝がなければ、もっと大きな救いをどうして期待できるのかという配慮から、すぐに跪いて神に感謝するのである[Tp.76]。神が救ってくれたので、その返礼として感謝を捧げ、その感謝の返礼として、島から救出されるという、さらに大きな救いを求めているのである。ここでは明らかに利害を抜きに神を無条件にあがめている訳ではなく、互酬性をもとにして、神に感謝し、神からの報酬を期待しているといえる。これらのことは、信仰についての微妙な心の揺れを非常に正直に描いているものであると評価できるように思われる。

 その一方で、「悩みの日に私を呼べ、私はあなたを助け、あなたは私をあがめるだろう」という聖書の言葉が目に留まり[Tp.124]、助けられることを真剣に祈っている。さらに、「必ず主を待ち望め」という一節に慰められ、感謝の念にあふれたというのである。とはいえ、やはり、以前の気楽な気持ちが失われ、心の平静さを失ったために、宗教心が大きな影響を受けたというのである[Tp.128]。身の危険を感じ、苦しみの挙げ句に祈ることはあったが、恐怖心から祈りを捧げるにふさわしい気分にはなれず、以前のようにすべてを神にまかせ、ただ平静と諦観に満ちた魂を以って祈る気分にはなれなかったというのである。逆にいえば、平和と感謝と愛情に満ちた気分の方が、恐怖と不安に満ちた気分よりも祈るにふさわしい境地であるというのである。差し迫っている災厄に恐れ、おののいている場合、人が神に祈るという気持ちになれないのは当然のことで、病床にあって悔い改める気にならないのと同じであるとも指摘されている。つまり、恐怖にもとづく信仰は本物ではないというのが、デフォーの根本的な考えであるといえる。このことは、シベリアを横断するロビンソンが、異教徒を改宗したいと思うならば、軍隊ではなく、聖職者が必要であるという主張を当局者より聞く話[Up.413]や、『ロクサーナ』の「私の不幸が罪の報いであったのと同様、私の後悔もまた不幸の結果にすぎなかった」(11)という最後の一文にも通じている。武力による改宗や天罰の結果としての反省も望ましいものではないというのである。また、ロクサーナのこの一節は、信仰を極めて互酬的応報的に捉えていることをも示している。

 ロビンソンは、神に感謝したかと思えば、すぐにそれを忘れ、すぐに反省したかと思えば、いつの間にか反古にしているが、どこか誠実に思索を重ねている姿が一貫して垣間見られている。反省しても、すぐに忘れてしまうのは、ロビンソンに限らず、『モル・フランダース』や『ロクサーナ』の主人公にも見られる特徴である。これらでも主人公はしきりに自らの罪深さを反省するものの、すぐに新たな罪を犯すといったことが繰り返されている。『ロクサーナ』は、悔い改めずに、再び逆境に沈むという結末をむかえるが、『ロビンソン・クルーソー』にしろ、『モル・フランダース』にしろ、紆余曲折を経るものの、最終的には救済された結末を迎えている。愛多き神の寛容によるものなのか、それとも、あれこれ言って、信仰の揺れを率直に示しながらも、そこに信仰の本質を見ているのか、幸福な結末となっている。これらの主人公(いずれの作品も自伝形式として書かれているので、設定上は著者にあたる)は、信仰の揺れや自分の罪を「彼れ此れと煎じ詰めて詮索」しながら、率直に告白していくので、非常に誠実だという印象を抱かざるをえず、その思索の中に引き寄せられるのである。


[続きを読む]

[註・参考文献]

[目次に戻る]


Copyright (C) 1999 by Sanzin. ALL RIGHTS RESERVED.