『ロビンソン・クルーソー』における倫理と宗教

 ・ 要約・序

 ・ 1 信仰の揺れ

 ・ 2 改宗の問題

 ・ 3 生命尊重の問題

 ・ 註・参考文献


2 改宗の問題

 『ロビンソン・クルーソー』を、罪を犯した者が悔い改め、救いにいたる径路を告白する清教徒の文学の系譜とみなすならば(12)、ロビンソン自身の悔い改めに最も注目しなければならない。しかし、前述のようにロビンソンは宗教的な回心を遂げた以降も信仰一辺倒の人間になった訳ではなく、その一方で、改宗や回心によって、ロビンソン以上に立派なキリスト教徒となった人間についての記述が豊富である。まず初めに、ロビンソンが「従僕」(13)とした原住民の改宗について考察することにする。「man Friday」といえば、ロビンソンの従僕フライデーの名に因んで、忠実で信頼できる部下、腹心を意味する普通名詞となっている。ロビンソンは、カニバリズム(14)の饗宴から逃げ出した原住民を助け、命を助けた恩義によって永久に奴隷(15)になる誓いを身振りで示したとみなして、従僕としたというのである[Tp.158]。ロビンソンは、命を助けたという恩を笠に着て、一方的に相手を従僕とみなし、宗教的な教化までして、相手を服従させたのであるという解釈もあるが、何か恩を受けた場合は、必ず何らかの形で報いるのが、デフォーの描く登場人物たちの行動パターンである(16)。

 フライデーの忠実で真面目な様子に感動したロビンソンは、「野蛮人」(17)について思索を巡らす[Tp.163]。これによれば、どうして神は、キリスト教徒に与えたのと同じ理性や情愛、恩義の念、その他諸々の諸能力を与えながら、これらを活用する機会を与えなかったのだろうかと考える。キリスト教徒でもこれらを活用していない者がいる一方で、フライデーを見ていると、自分たち以上に活用できるように思い、どうして神は救いの知識を隠したのだろうかと問うている。デフォーは、ロックの著作を愛読し、政治思想などにおける影響は顕著であるが、ここでは、ある種の能力は生得的に与えられたものであり、それが後の経験によって、開化するものであるという思想が読み取れる。ロビンソンにとって、基本的にはキリスト教こそが唯一の救済への道であり、キリスト教徒でないものは野蛮であるという考えが根底にあるとはいえ、神による救いの知識によっては、「野蛮人」といえども、自分たち以上になりうると考えている点は注目に値する。ロビンソンはフライデーの教化に努めた結果、「今や私以上に善きキリスト教徒になった」と喜んでいる[Tp.172]。

 さらに「野蛮人」の素晴らしい素質を見るにつけ、どうして神は「野蛮人」に救いを与えていないのかと糾弾したい気持ちになったというのである[Tp.164]。このことは、もし神が全知全能であるのならば、どうして人間の罪をそのまま放置し、等しく救済しようとしないのかという疑問でもある。この問題は、もし神が万能なら、どうして悪魔を殺さないのかというフライデーの疑問とも重なる。贖罪についての考えは、理性によっては捉えきれないものを含み、結局、天からの啓示によってしか、育成することは不可能であると結論づけている[Tp.170]。とはいえ、教化の方法は、知識よりも誠意に頼る一方で、聖書を熱心に読み合わせていくことで十分であるというのがロビンソンの考えであり、デフォーの考えでもあると思われる。聖書中心の考え方は、極めて新教徒的であるといえる。

 ロビンソンがフライデーにキリスト教をはじめ様々な知識を授け、本人の意思によって自発的に忠実な従僕となったことと、イギリス人水夫が捕虜にした原住民を教化することなく、従僕として徹底的に苦役に使った事例とが対比されている[Up.262]。これによれば、彼らは、命を救ったという根本的な点を叩きこみ、人生の諸原理や宗教の原理を教え込むこともなく、親切に取り扱ったり、諄々と論じ合うことによって教化し、善導したりすることもなかったので、忠実な協力者にはならなかったというのである。ロビンソンは、キリスト教を支配の道具として巧みに使うことによって、支配のために強制的な暴力に訴える必要がなかっただけであると指摘できる。しかし、ロビンソンは(ひいては著者のデフォーは)、誠実が何よりも重要な徳目であると考え、互酬的応報的な関係で捉えていたように思われる(18)。

 改宗問題に関連して、ロビンソンは武力の行使に否定的ではあるが、全面的に否定している訳でもない[Vpp.230ー231]。武力や強制だけでは人々を改宗することは出来ないとしながらも、武力は有力な手段であると考えているのである。ロビンソンは、北京からシベリアを横断して帰途に就き、途中、タタール人の集落を襲撃して、偶像を破壊する[Up.407]。ロビンソンは、偶像崇拝の愚かさを示し、キリスト教の神の名誉を擁護したいと考えたのである[Upp.404-405]。ロビンソンが計画を打ち明けた人間は、この地方の動静に詳しく、偶像を破壊しても、その意味を相手に伝えることが出来なければ無意味であるし、相手からの反撃のことを語り、思いとどめようとする。しかし、キリスト教徒が偶像への犠牲として焼き殺されてしまったという話を聞いたりするうちに、とにかく実行しようということになる。

 マダガスカルで同行の船員が殺され、その復讐のために船員たちが集落を焼き打ちした時には、ロビンソンは強硬に反対したが[Up.357]、今回はマダガスカルの焼き討ちのようにすべきだと主張するのである[Up.406]。焼き討ちともなれば、同じ偶像を崇拝する村が無数にあるので、とにかく偶像だけを罰しようということになる。ここでは、人殺しはしないという原則は守られるが、いかなる権利があって、人々を縛り上げ、偶像を焼き払うのかという考察はなされていない。偶像が悪魔そのもののようであるとか、礼拝する人々の様子が愚劣で、野蛮であるとか、堕落しきっているとか、一方的な批判に終始しているだけである[Upp.403ー404]。キリスト教徒にとっては愚劣な偶像でも、タタール人にとっては崇拝の対象であるということは、十分に織り込み済みであり、それゆえ、偶像を見せしめ的に焼き討ちしたのである。ここでは、真摯に改宗を行おうとしている訳ではなく、とにかく制裁を加えたいという感情が優先している姿が描かれているのである。異教徒の改宗には軍隊ではなく、聖職者が必要であるという先述の話は、この事例への批判とも読めるのである。

 先に見たように、ロビンソンは、恐怖にもとづく信仰、天罰や不幸な出来事を強調することに対して否定的である。タタール人の偶像への襲撃のエピソードは、異教改宗の困難さを表現している一方で、襲撃の対象とされたタタール人から見れば、不条理以外の何物でもない。ロビンソンは、誠実を最高の徳目と考え、何か恩義を受けるようなことがあれば、必ずそれに報いようとし、後に見るように、相手が危害を加えようとしているのでない限り、こちらから攻撃することは許されないという原則を重視している。しかし、ロビンソンは、タタール人が悪魔のような偶像崇拝を行っていたので、神の名誉のために罰を与えただけであると、自分たちの行動を正当化しているが、こういった諸原則からは、この焼き討ち事件は正当化されるものではない。

 『反省録』では、「マタイ伝」7章12節の「何事でも人々からして欲しいと望むことは、人々にもその通りにせよ」の一節の否定形ともいえる「何事でも人からして欲しくないと思うことは、人にもするな」[Vp.27]という一節が、黄金律として示されている。ロビンソンにとっては、偶像は悪魔的なもので、罰を与え、キリスト教の神の名誉は守りたい。タタール人にとっては、偶像は崇拝の対象であり、罰など与えられる筋合いではなく、むしろ、キリスト教は邪教であり、征伐したいと思っているかもしれない。「マタイ伝」7章12節のように、人からして欲しいと望むことを行なうという原則のもとでは、ロビンソンが偶像を焼き討ちし、タタール人がキリスト教征伐を試みたとしても、原則との矛盾はない。一方の『反省録』の黄金律では、人からして欲しくないことが問題となり、「人を裁くな。自分が人に裁かれないためである」(マタイ伝7章1節)と内容的に近い。他人から危害を加えられたくなければ、他人へ危害を加えるべきではないというのである。こちらもまさに互酬的応報的であるが、偶像焼き討ちを批判しうる原理が提示されていると言える。ロビンソンは、フライデーとの間には、互酬的応報的な関係を築き上げ、改宗に成功したのであるが、一方的に危害を加えたタタール人に対しては、反感を買っただけに終わったと結論づけても良いように思われる。


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