・ 要約・序
・ 1 信仰の揺れ
・ 2 改宗の問題
・ 註・参考文献
カニバリズムの饗宴の痕跡を見たロビンソンは衝撃にとらわれ、襲撃計画に取り付かれる[Tpp.129-132]。しかし、その具体的な計画を練るうちに、そもそも、なぜ襲撃し、殺戮しようとしているのかと疑問に取り付かれることになる[Tp.133]。これを見れば、結局のところ、単なる恐怖心からの感情の昂ぶりに過ぎず、神は今まで黙認してきたのだから、自分にはどんな権威や使命があるのだろうかと反省するのである。ロビンソンは、人喰いの風習を許されないものであると考え、天罰を加えたいと思ったものの、自分にはそのようなことをする権利がないことに気付くのである。彼らは自分たち自身の行為を犯罪だと考えている訳でもなく、良心の呵責を感じている訳でもない。神の正義に反して、罪を犯していることを知らず、ヨーロッパ人が牛や羊を食べるように、人肉を食べているだけで、彼らを殺人者として非難することは出来ないのではないかというのである[Tp.134]。このことが戦争で捕らえた捕虜を死刑にしたり、投降した全軍を殺すキリスト教徒が殺人者と言えないのと同じであるという指摘は、キリスト教徒の残虐さを非難しているというよりも、罪の意識の有無を問題にしているように思われる。先に見たように、神はどうして救いの知識を隠したのかというロビンソンの考えを見ても、そもそも人肉を食べることが罪であるという意識がなければ、人肉を食べることを強く非難することが出来なくなるのである。
ロビンソンは、カニバリズムがいかに獣的で非人間的なものであっても、そもそも自分には関係のないことであり、彼らはこちらに何も危害を加えていないと気付く[Tp.134]。もし相手がこちらに危害を加えようとし、自分の身の安全を守る必要のためならば、正当であるが、こちらから先に攻撃することは正当でないというのである。もし、先に攻撃することが正当化されれば、スペイン人がアメリカで行った無数の殺害(19)も正当化せざるをえなくなると指摘している。「彼らは、偶像崇拝者で野蛮人barbariansで、人間を偶像に犠牲として捧げるような、血なまぐさい野蛮な儀式も行っていたかもしれない。しかし、スペイン人に対しては、何の罪も犯していない」と言い、神に対しても、人に対しても、許すべからざる文字どおりの虐殺行為であり、人間のなす業とは思えない血なまぐさい残虐行為であるとして、極度の嫌悪の情をもって語られているというのである[Tp.134]。つまり、ここでは、危害を加えていない人間を殺害したゆえに非難されるべきであるということと、虐殺そのものが残虐であり、非人間的であるゆえに非難されるべきであるという二点が語られているのである。
さらに、ロビンソンは実行計画について考えをめぐらしている[Tp.135]。これによれば、先程と同じく、まず第一に、向こうが先に攻撃を仕掛けてこない限り、こちらから余計な手出しをする権利はないということがある。第二に、皆殺しに失敗すると、敵に仲間を呼ばれ、絶体絶命のピンチになるという戦略的観点を付け加えている。第三に、宗教的観点として、罪のない人間を、少なくとも、自分に対しては罪を犯していない人間を殺そうとする残忍な計画をたてたことは、なすべきことではないと反省している。これは、宗教的観点といいながらも、相手からの危害がない限りという点では、第一のものと同じ論理である。さらに、自分に対して何か危害が加えられた訳ではないので、自分には関係のないことであり、彼らが互いに犯しあっている犯罪は、種族全体の犯罪であって、神の裁きにゆだねるべきものであるという。神は万民の支配者であるので、種族の罪に対しては、種族全体を罰することによって、正しい報いを下すだろうというのである[Tp.135]。しかし、結局は、食人の現場から逃げ出した捕虜を助けるために発砲し、相手が弓矢を射ろうとしていたので発砲したと自分で自分に言い訳を行っている[Tp.158]。ここでの言い訳にも、相手からの危害ということが重要な論点となっている。
前述のように、ロビンソンは、タタール人の偶像を焼き打ちしたが、マダガスカルでは、同行の船員が殺され、その復讐のための襲撃には強硬に反対している[Up.357]。ロビンソンは、協定を破ったのは船員の側の落ち度であり、こちらから攻撃を仕掛けることは許されないと考えていたのである。一方の船員たちは、先に手を出したのは相手の方であるので、自分たちの復讐を正当なものだと考え、自分たちは正しいことを行なったのであり、神の法が殺人に対して認めていることだけを行ったと主張している[Upp.354ー355]。これに対して、ロビンソンは、十分な論拠を以って反論することができず、感情的な対立もあって、船を追われることになったのである。ロビンソンは虐殺の現場で、船員たちを戒めたが、船長であったロビンソンの甥でさえ、残酷に殺された船員を見ると、自分の感情を抑えきれなくなって、虐殺に加わってしまうのである[Up.350]。ここでは生命尊重の原則よりも、相手からの危害の有無が論点となっていることがわかる。残虐さに嫌悪を覚え、生命それ自体が尊重されるべきであるという自然の感情だけでは、問題解決の糸口足りえないのである。
その一方で、トンキンでのエピソードでは[Upp.371-372]、血を流すことなく、勝利できたことを喜び、自分の命を守るためであっても、殺すことに嫌気がさしていたと、ロビンソンは語っている。というのは、相手にしたところで、正しいと考える使命を果たすために来たので、それを知っているとなおさらであり、この世に必要悪はなく、必要であるからには正当であるに違いないというのである。自己を全うするために同じ人類同胞を殺さざるをえないのは、悲痛な人生だと考えざるをえず、たとえ自分に危害を加えている相手の場合でも、その人の命を奪う位なら、むしろ自分自身で苦しみを受けたいというのである。そして、生命の価値を知っているすべての思慮深い人が同意見であることを信じていると語っている。ここでは、明らかに他者危害の原則よりも、生命尊重の原則を上位に持っていくべきであるという志向が読み取れる。汝の敵を愛せよ、右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せという従来のキリスト教的精神が唐突に表明されているとも言える。しかし、ここにおいてさえも、危害を加えられた場合の反撃を一切認めていない訳でもなく、これ以外の部分では、むしろ積極的に危害を加えられた場合の反撃を認めているのである。生命の価値を認めるがゆえに、様々に逡巡を繰り返しながら、自分に危害を加える相手は、たとえその生命を奪うことになったとしても、やむを得ないと結論づけてきているのである。危害を加えてこない相手を攻撃することは許されないが、生命を奪うことに嫌悪を覚えたとしても、危害を加える相手への攻撃は許されるという原則がより重要視されているのである。また、刑罰についての考え方も応報的であり、殺人を犯したも同然の時は死刑は当然であるが[Up.374]、泥棒を罰する時は死刑はおかしい[Up.375]というのである。先に見たように何か恩義を受けるようなことがあれば、必ずそれに報いるようとする原則を見ても、きわめて互酬的応報的であると言える。
ところで、ロビンソンにとって、生命の価値とは如何なるものであろうか。人間の問題に限っても、以上のように見てくれば、生命そのものに絶対的な価値を認めているとは言いえない部分がある。キリスト教徒にとって、人間と人間以外の動物は隔絶をもって区別されるが、ロビンソンは、食用とみなすものを除き、動物を家族として可愛がっている。例えば、犬や猫を飼い、オウムに熱心に言葉を教え、子ヤギを愛玩用に手許に置いて、手からじかに餌を食べるように飼い馴らしている。ところが、殖えすぎて、食糧を食い荒らすようになった猫は撃ち殺し、可愛がっていた猫を除いて、追い払い、子猫が生まれると水に投げ込んで殺したというのである[Tp.141]。また、畑の穀物を食べる鳥は、銃で撃ち落とし、見せしめに鎖で縛り首にもしている[Tp.92]。相手が危害を加えない限りは、慈しみの対象であっても、危害を加えれば一切容赦しないのである。ここにも、互酬的応報的な原則を見ることができる。
漱石はデフォーの作品を、「人の一生涯というものは生まれたからしてなにごとかが起こって、死んだからそのなにごとが纏まるというものではない」、「主人公の生涯の始めから終りまで写すのが主意」であるかの如きであると評している(20)。「人が生まれる。生まれるということがそれ自身において一事件かもしれぬ。一事件であるとすれば、人が死んだ時にその事件が失くなるまでで、その波瀾が消えたのとその事件が纏まるのとは非常な相違がある」という。『ロビンソン・クルーソー』は波瀾に満ちた物語である。確かに始めから終わりまで色々な出来事があって、波瀾に満ちているのであるが、漱石の指摘の通り、まとまりはないのかもしれない。当時の漱石の考える「小説」ならば、あらゆる出来事には有機的連関があり、主人公の性格その他も連関を持ったものである必要があるのである。人間の実人生に有機的連関があっても、その連関を完全に見通すことは不可能であり、あたかも混沌としたものであるかの如くである。漱石は、その混沌をありのままに描こうとするだけでは「小説」にはなりえないというのである。そもそも、デフォーには、漱石がいうような「小説」を創作しようとする意識はなく、『ロビンソン・クルーソー』は、ロビンソン・クルーソーという人物の自叙伝・回想録として、創作されたものである。ロビンソン・クルーソー本人が、自分の一生の出来事を様々な反省をまじえて振り返っているのである。実人生に有機的な連関があっても、「小説」で描かれた登場人物のようにはいかない。道徳的・宗教的教化を目的としたものであっても、実人生のありのまま、思索のありのままを描こうとしている限り、竹を割ったような単純明快な結論を引き出す術はないのである。
「世の中は纏まったものではない、冗漫極まったものだという人がある。それは同意してもよい。」「世の中が冗漫だといって、自分が冗漫なことには頓着せず、無頓着なことを書いてこれが世の中だという。世の中かもしれないけれども、世の中をどこから見たのか分からない。」(21) こちらも漱石の言であるが、デフォーを読む人間への戒めだと言っても、あながち検討はずれではない。「自己が世の中を観察する態度がきまると、世の中も存外締め括りのあるものである。」と言われるごとく、『ロビンソン・クルーソー』は、様々な視点から読み込むことが出来るのである(22)。
漱石は「写生文家がよく要らぬことを並べるところがデフォーに似ている。けれども、並べたがる動機はだいぶ違っているようである。写生文家は無頓着にならべるらしい。ええい、構わない、それも書け、これも書けという風にやるらしい。ところがデフォーのはそうではなく、万事実用から割り出して、損得を標準にしているようにみえる。塵一本でも書き落としてはもったいないという下司張った根性から出る。」(23)と指摘している。本論は倫理と宗教の問題の中から、信仰の揺れ、改宗の問題、生命の尊重の問題を『ロビンソン・クルーソー』に現われた思想をもとに考察したのであるが、『ロビンソン・クルーソー』の思想、ひいては18世紀のイギリス精神史を「写生」しただけの、「冗漫極まった」ものであるという謗りを受けるのかもしれない。